勝田全国マラソンの歴史
勝田全国マラソンは、幾多の変遷を重ね、多くの大会関係者やボランティアに支えられ、毎年全国各地から2万人を超えるランナーが参加する全国屈指の市民マラソンへと成長しました。
市民マラソンの幕開け
昭和56年の第29回大会から女子マラソンの部も新設。この時から「勝田全国マラソン」と呼ばれるようになりました。
また、年々高まるジョギング、マラソンブームを反映して、回数を重ねるたびに参加者も大幅に増加。第34回大会で5,000人を超え、37回には倍増の1万人。第60回でついに2万人を突破すると第63回大会では過去最高の24,195人を記録しました。
手づくりのゼッケン
「勝田全国マラソン」に名称が代わったころのエピソードとして“手づくりのゼッケン”があります。これは、今日の勝田全国マラソンの基礎を築いた(故)川又廣氏が当時、大会運営のためにゼッケンを手づくりしたという話です。
四角に切ったさらしもめんの布に、墨で一枚一枚ていねいにゼッケンナンバーを書き入れ、参加者約2,000人の胸と背の分、合わせて約4,000枚をつくりあげ、選手たちはその手づくりのゼッケンを付けて走ったといいます。
街おこしに一役 参加賞に”完走いも”
特産品の「乾燥いも」が参加賞として選手に贈られたのは、昭和58年の第31回大会から。マラソン大会を通じて街おこしも図ろうと実施されたもので、それまでの参加賞といえばタオル1本だったそうです。
「乾燥いも」をマラソンでの”完走”とかけて、参加賞として渡し、縁起の良いものとして選手たちの心をつかみ、人気を博しています。
市民ぐるみの大会に成長
勝田全国マラソン大会は現在、大会関係者やボランティアなど2,000人以上の人たちの手で運営される一方で、沿道の至る所では食べ物や飲み物のサービスが、市民の皆さんの好意により行われています。
「市民総合参加型マラソン」を目指す同大会は、文字どおり市民ぐるみ、街をあげた大会として成長し、多くのランナーに愛されています。
勝田全国マラソン年表
第1回 | 昭和28年2月、勝田全国マラソン大会の前身となる「読売全国マラソン」の神宮大会(東京)が開かれる。初代の優勝者は篠崎清氏(茨城)で、記録は2時間31分36秒。 |
---|---|
第3回 | 第8回大会まで青梅大会(東京)として開催される。 |
第9回 | 青梅市で行われていたものを、さらに発展させて東京オリンピックを目指す選 手の強化に役立てようと、会場を栃木県宇都宮市に移し、宇都宮大会として開催。メルボルンオリンピック男子マラソンで5位入賞を果たした川島義明氏(県立 水戸農業高校出身)や全国マラソン優勝者など、新鋭、強豪を含む104人がエントリーした。 |
第10回 | 会場を水戸市に移し、水戸大会として昭和46年の第19回大会まで開催される。第15回大会では、226人が参加し、当時の日本マラソン史上で最も出場選手の多い大会となった。またコースは、第13回までが当時の茨城県庁前をスタートとするコース、14回からは水戸市青柳公園をスタートとするコースに変更になり、第18・19回は、スタート地点を勝田市中央公民館前に移した42.195km。 |
第20回 | 「水戸大会」から「勝田大会」へと名称が変わり、勝田市役所前をスタートし、原研東海−久慈川大橋を折り返す日本陸連公認コースで行われた。全国各地から一般の部に265人、この年に新設された壮年向け10kmコースに初の女性参加者3人を含む52人が参加するなど、“日本一のマンモス大会”となった。 |
第21回 から 第24回 |
出場選手が増加の一途をたどる。特に、10kmの部には、女性や高齢者の参加が多くみられ、このころから“市民マラソン”としての特色が表れ始める。また、ボストンマラソン優勝者の山田敬蔵氏が第21・22回のフルマラソンに出場するなど、大会に華を添えた。第23回大会は、40歳、50歳、60歳、70歳代、女子の部の各部門を10kmの部に設け、第24回大会では更に、39歳以下と高校生の部を新設し、10kmレースの7部門を確立。また、第24回大会より2月11日(建国記念の日)の開催となる。 |
第25回 | コシチェ国際マラソン派遣選考会を兼ねた大会。勝田市役所前から東海村豊岡を経由して高場の県道で折り返すコースに変更。 |
第27回 | フルマラソンと10kmレースの参加者合わせて、1,000人を突破。高校男子10kmの部で、大塚正美選手(水戸工業高校)が史上初の三連覇を達成。 |
第29回 | 「読売全国マラソン」が「勝田全国マラソン」と名称が変わり、女子マラソンも新設された。初代女王に輝いたのは、3時間10分0秒の記録で芦川妙子選手(日製多賀)。 |
第30回 | 勝田市役所を出発点に市街地を2周するコースに変更。 |
第31回 | 勝田市役所を出発点に原研−笠松を経由する新コースで実施。参加者全体で2,000人を超え、参加賞として“完走いも”が贈呈される。 |
第32回 | 史上最高の4,230人が参加し、勝田全国マラソンが全国各地に広がりを見せる。 |
第35回 | 参加者が6,600人を超える。市文化会館前をスタート、石川運動ひろばをゴールとするコースに変更。上位入賞者のボストンマラソンへの派遣が始まる。 |
第37回 | 全国41の都道府県から1万人余りがエントリー。スタート地点が中山病院前に変更。 |
第38回 | スタート地点が再び市文化会館前に戻り、日本を代表する女子ランナー、増田明美さんも10kmの部に出場。ボストンマラソン大会に、市内枠第一号として野中一晴さん(中根)を派遣。 |
第39回 | 昭和通りが完全交通規制される。女子の市内枠第一号として、上倉豊子さん(中根)をボストンマラソン大会に派遣。 |
第40回 | 記念大会に君原健二選手を招待し、10,172人のランナーが参加。清水市長を団長に、17人の派遣団をボストンマラソンに派遣。 |
第43回 | ひたちなか市誕生記念大会として開催し、参加者は約14,000人。 |
第45回 | 過去最高の参加者数となる14,168人を記録。 チップによる記録計時の採用と、マラソン讃歌「君よ勝田の風になれ」の完成。 |
第50回 | 半世紀を飾る大会に12,385人がエントリー。有森裕子選手と弘山晴美選手を招待選手として招き、上位入賞者20人をボストンに派遣。 |
第53回 | 開催日を建国記念の日から1月最終日曜日に変更。 |
第54回 | 中間地点でのタイム計測を導入。 |
第59回 | ナンバーカードの事前送付を始める。 |
第60回 | スタート時間をフルマラソンの部で30分繰り上げし、10kmの部も一部変更。30km関門を設置。 |
第61回 | KATSUTAの頭文字「K」をモチーフに、マラソンランナーの前へ進む脚の動きをイメージした新しいシンボルマークを制定。 |
第63回 | 初の47都道府県から申込みがあり、過去最高の24,195人がエントリー。 ランナーの安全を考慮し、医療体制の充実を図るため、AEDを背負った自転車隊がコースを巡回するAEDモバイル隊を新設。 |
第64回 | ランナーの安全面を考慮し、フルマラソン1万5千人、10km1万人の定員を設定。 AEDモバイル隊に加えランニングドクターを導入。 男子マラソンの部で16年ぶりに大会記録を更新(2時間13分15秒)。 |
大会記録
種目 | タイム | 選手名 | 大会 | |
---|---|---|---|---|
マラソン | 男子 | 2時間11分17秒 | 渡邉利典(GMO) | 第68回 |
女子 | 2時間28分17秒 | 嶋原清子(資生堂) | 第51回 | |
10km | 男子高校 | 29分51秒 | 湯浅龍雄(市立松戸) | 第41回 |
男子39歳以下 | 29分07秒 | 大塚正美(亜細亜大教) 佐々木淳(日立電線) |
第36回 第41回 |
|
男子40歳以上 | 31分20秒 | 小野正人(NK高萩) | 第41回 | |
女子高校 | 32分50秒 | 大崎千聖(聖徳大附聖徳) | 第54回 | |
女子39歳以下 | 31分55秒 | 渋井陽子(三井住友海上) | 第51回 | |
女子40歳以上 | 37分05秒 | 茅根亮子(ウィズラン) | 第56回 |